理想と現実が違うなら、理想を求めて行動を起こせば良い

「理想と現実は違う。だから、その理想を追い求めることは困難だ。」

医療・介護のコンサルティングをしているとこのような趣旨の言葉が経営者や管理職の口から度々飛び出す。

この言葉の真意は、「理想と現実はあまりにもギャップがあるので、そのギャップを埋めることは困難だ。だから、そんなことは諦めたほうが良い」であると推察される。

しかし、よく考えてみて欲しい。いつの世も理想と現実は違う。「その時代に存在する現実に対しての理想」がいつの世も設定される。その理想を追求することが、人間がもつ力であり英知である。

今の世の中は、昔に創造された理想に満ち溢れている。 車、電車、飛行機などの交通インフラ、食糧事情、住宅、学校、医療、介護サービスなど一昔前にはすべて、理想であった。

「理想ばかり語ってはダメだ」とよく聞く。
確かに、理想だけを語り、行動を起こさないのは罪だ。
そんな理想は机上の空論である。
しかし、理想がなければ行動も語れない。

冒頭の「理想と現実は違う。だから、その理想を追い求めることは困難だ。」には、別の意味が含蓄されている。
「何が理想なのかわからないので、理想を語ることができません」
「理想はわかっているのだが、行動を起こすことができない。そうであれば理想は語らない方が体裁が良い」という意味も含んでいる。

昨今の医療・介護事業には常に、理想と現実のギャップがつきまとう。
診療報酬、介護報酬の改定は常に新しい理想を経営者や管理職に突きつける。

もし、経営者や管理職が理想を追い続ける姿勢を失ったらならば、それは医療・介護事業を放棄したものと同じである。

あるべき姿である理想を捨てた経営者や管理職は、名ばかり経営者・管理職である。

理学療法士・作業療法士・言語聴覚士のステークホルダーはなんだ?

ステークホルダー
利害関係者
消費者(顧客)、従業員、株主、債権者、仕入先、得意先、地域社会、行政機関であり、自身との関係の中で、利害が発生する間柄であること。

あらゆる職種にはステークホルダーが存在する
当然、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、医師、看護師、薬剤師・・・・にステークホルダーが存在する。
多くの医療・介護従事者は、利害関係者を患者や利用者と認識している。
これは正しい。
サービスを直接提供する相手である患者や利用者は、サービスの提供に対し対価を支払う関係であることから間違いなく利害関係者である。

しかし、患者や利用者のみが利害関係者であると考えるのは、間違っている。
医療・介護従事者にとって利害関係者は、多様に存在する。
例えば、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士にとって、医師やケアマネージャーは間違いなくステークホルダーである。

医師やケアマネージャーの指示や計画により、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士は自らの任務を果たすことが出来る。その任務の成否は、医師やケアマネージャーの任務にも影響を与える。いわゆる一人の患者や利用者の運命に影響を与える共同体として関係である。
したがって、医師やケアマネージャーにとっても、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士はステークホルダーである。

ステークホルダーを考えることができない医療・介護従事者は多い。
特に職人肌の職種ほどステークホルダーに対する視野が狭い。
職人は、自分のこだわりの実現や自分特有の作品に対する指向性が強い。
したがって、ステークホルダーに対する視野が狭い傾向がある。

しかし、今の世の中は、ステークホルダーとの連携や拡大が評価される時代である。
組織や社会の課題を解決することが、より評価される現代では、ステークホルダーを特定し、重要視できない人は、淘汰される可能性が高い。

職人肌の職種の持っている技術・知識は、間違いなく組織課題や社会課題の解決に有用なものである。
職人の持っている能力を組織や社会に還元するためには、ステークホルダーを今一度整理し、そのステークホルダーにどれほど貢献できているのか?を検討する必要がある。

理学療法・作業療法・言語聴覚療法・看護・介護も手段であり、目的ではない。
その目的はステークホルダーと共有している組織や社会課題の解決である。

 

批判と嫉妬は紙一重

批判が好きな人がいる
批判をすることで自己の存在を知らしめる人がいる
批判キャラで炎上を狙い、注目を集める人がいる
批判をマーケティングに使う人がいる

ある哲学者曰く、あらゆる意見は、「批判」があるから、意見として成り立つ。

つまり、批判とは、本来、意見に対する別の視点からの意見、つまり、対案に近い意味を成すものである。つまり、対案の存在により、意見が意見として成立する。

しかし、批判を用いて、相手を窮地に陥れ、自らのポジションを高めることを人がいる。
そのような人は自己顕示欲が高い。
自己顕示欲が高い人は、嫉妬心を強く持つ人であると言える。
つまり、批判のための批判や注目を集めるための批判をする人は、批判の矛先である相手に「嫉妬」しているのだ。

嫉妬を感じるということは、自分の価値と他人の価値を比べて「敗北」を感じることである。

相手との関係で相対的に「敗北」を感じた瞬間、自分の価値が下がったように感じる。
「自分の価値の低下」は、自己嫌悪感を生み、それに対する防衛機制を生じる。
防衛機制は様々な反応を示し、その結果として相手を「批判」するという症状が現れる。

この場合、建設的な批判になることは少なく、自己防衛のための批判となる。

建設的批判をするためには
意見者の人格を攻撃しないこと
なぜ批判するのかを明確にすること
言いたいことは具体的に説明し、感情論に終始しないこと
相手と対等の立場で接すること
が重要である

SNS、ブログ、ネットサーフィンが生活の一部になっている現代社会では、様々な「意見」と「批判」が飛び交う。

このような社会では、批判にも種類があることを見極め、批判へのリテラシーを高めることが重要である。

 

理学療法士は理学療法屋か?作業療法士は作業療法屋か?言語聴覚士は言語聴覚屋か?

仕事とは社会課題を解決する手段である。
よって、仕事の目的は社会課題の解決である。
理学療法士は理学療法屋ではない
作業療法士は作業療法屋ではない
言語聴覚士は言語聴覚屋ではない
看護師は看護屋ではない
介護福祉士は介護屋ではない

有資格者の仕事は資格がもつ専門性をツールとして社会課題を解決することである

たとえば、理学療法士は理学療法というツールを用いて、社会課題を解決することが理学療法士の仕事の本質である

これはマーケティング領域を決める点において極めて重要な考え方である。
医療・介護従事者は専門職である。したがって、専門分野の知識や経験の習得に関しては、貪欲に取り組む傾向が強い。しかしながら、専門能力を発揮することで、解決しなければならない社会課題への意識は極めて気迫である。
これを「近視眼的マーケティング」と言い、マーケティング上の使命を狭く解釈しすぎており、環境への適応が極めて難しくなっている状況と言える。

社会課題への意識が低い原因は学校教育や卒後教育に、責任の一端がある。国家資格合格や現場でマンパワーとして活動することへの教育や支援ばかりに偏ると、資格を取る目的を見失いがちになってしまう。

診療報酬改定・介護報酬改定は、「社会課題の解決」を目的に設計されている。
地域包括ケアシステム、急性期病床や療養病床の整理、リハビリテーションの社会化・・・・など、多くの社会課題の解決を目的とした制度設計が行われている。

社会課題の解決を目的とした理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、看護師、介護福祉士は市場で重宝され、淘汰されることはない。
理学療法・作業療法・言語聴覚療法・看護・介護が社会の中に存在し続けるためには、社会課題を解決するツールで有り続ける必要がある。
もし、社会課題の解決になんら寄与しないツールになれば、、市場から淘汰され、資格の価値は下落するだろう。

国家資格は国から付与された厳格な資格である。
したがって、国が抱える社会課題の解決に寄与する働き方をすることは、国家資格取得者に与えられた義務である。

今のまま働き続けて、死ぬ直前に最高の仕事だったと思えるか?

仕事の定義が変質している。

世界、そして日本を取り巻く環境は劇的に変化している。
経済成長の低迷・揺らぐ社会保障・格差拡大・政情不安定・気候変動・エネルギー問題・・・・など多くの社会課題が山積している。

これらの社会課題は安定的な経済成長や社会保障を保証することができないため、企業や労働者は状況に応じた対応ができなければ、危機に陥る。

「与えられた仕事をしているだけで、出世したり、給料が上がったり、年金がもらえたり、退職金が増えたりするコト」は、「非現実的なコト」になった。
給料や処遇を考えるならば、与えられた仕事をこなすという働き方はすでに限界に達していると言える。

つまり、十分に生活をしていけるだけの金銭的な対価を得ることも難しい時代になっている。
これは、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、看護師などの医療資格をもつ人にとっても深刻な問題である。

では、仕事とは、金銭的な対価を得るためのだけの手段なのか?

仕事とは何か?
この質問に多くの哲学者、経営者、専門家が答えている。
金銭的な対価を得るための仕事、与えられたことをこなすことが仕事、命令に従って作業を行うことが仕事、夢を叶えるのが仕事、やりたいことをすることが仕事、一つのことに打ち込むのが仕事・・・など、仕事に関しては沢山の概念や考え方が存在する。

今のまま働き続けて、死ぬ直前に最高の仕事だったと言えるか?という質問に、「最高の仕事だった」と答えるためには、仕事に対してどのような考えを持つべきであるか?

筆者は「仕事とは常に自分が自分で在り続けられるかという存在意義を確認すること」であると考えている。自分自身の存在意義を常に感じられることができれば、人は自分の価値観を満たすことができ、充実感を覚える。

自分自身で自分の存在感を感じることができれば、それはもはや仕事ではないか?

別の見方をすれば、例え、職を得ていても自分自身の存在感を感じることができないのであれば、それはある意味失業ではないか?

理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、看護師などの医療資格をもつ人々のどれぐらいの人が自分自身の存在感を感じながら、仕事に取り組んでいるのだろうか?

有資格者になれば給料や処遇が安定しているという動機で、有資格になった人が相当するいることは否めない。

死ぬ直前に「本当に素晴らしい仕事だった!」と思うためには、
「生活を保証するための仕事」と「存在意義を感じることができる仕事」をバランスよく行う「働き方」
すなわち
「ワークシフト」が必要である。