心身機能を軽視して、偏重的に活動・参加を訴えるセラピストが増えたという事実

2015年度介護報酬改定では、リハビリテーション分野において「心身機能」・「活動」・「参加」の重要性が明示され、通所リハビリテーション・訪問リハビリテーションでは「活動」と「参加」に資する取り組みを評価する介護報酬項目が整備された。

活動・参加の概念は、リハビリテーション本来の意義を問いただすものであり、これからの高齢化社会においては益々重要となる。

しかし、筆者はこの一年間感じてきた違和感がある。

心身機能の評価や介入が未熟なセラピストに限り、「活動」「参加」が重要だと異常に訴える事例が散見することである。

自身の理学療法・作業療法・言語聴覚療法が未熟なことで、患者や利用者の基本動作能力・応用的動作能力・言語聴覚機能が回復しないことに気づいていないセラピストは残念ながら存在する。

そういったセラピストが、十分に患者や利用者の心身機能のポテンシャルを引き出してない中で、「活動」と「参加」に傾注することは、患者や利用者にとって迷惑千万な話ではないか?

セラピストと患者・利用者の間には「情報の非対称性」が存在する。

情報の非対称性とは
保有する情報に差がある時に生まれる不均等な情報構造
の事を言う

つまり、患者や利用者はセラピストより心身機能・活動・参加に関する情報を有していないため、セラピストの言いなりになる傾向がある。

セラピストが、「あなたの心身機能はもうプラトーなので、自宅では歩行器を使って歩きましょう」と説明すると、「心身機能がプラトー」であると判断する情報を患者や利用者は有していないため、セラピストの説明に従う可能性が高い。

しかし、心身機能の評価や介入に長けたセラピストがその患者や利用者を診れば、「十分に自立歩行を目指せる」と評価する可能性もある。

「活動」・「参加」はリハビリテーション上の目標であり、人が自分らしく生きていくために必要な概念である。しかし、心身機能の向上の追求なしに、「活動」「参加」という表面的な概念だけを妄信的に追いかけていくことは、リハビリテーションの概念にも反する。

理学療法士・作業療法士・言語聴覚士は、他職種と比較して、医学的側面から心身機能を評価できるアドバンテージを有しており、そのアドバンテージを活かして、「活動」・「参加」を客観的に冷静に評価・介入することが最大の強みである。

心身機能の評価・介入を軽視した「活動」・「参加」への妄信的な取り組みは、視野の狭い「活動」・「参加」偏重主義者であり、決して、患者や利用者のQOLの向上には寄与しないだろう。

心身機能・活動・参加
この概念の全ての要素を限りなく追求する事で本来のリハビリテーションが達成できる。
当然、心身機能だけを追求し、活動・参加を無視することはあってはならない。

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リハビリテーションサービスのインフラが整ってきている時代だからこそ
心身機能が評価できて
活動も評価できて
さらに、参加も評価できる
が当たり前にできるセラピストが真に活躍する時代が近づいているのではないだろうか?

 

GKDKNセラピストが組織を劣化させていく

G:学生に
K:厳しく
D:同僚
K:厳しく
N:ない
セラピストが多すぎる

通称、GKDKNセラピストだ!

みなさんの職場にはいないだろうか?
実習生には厳しく、職場の同僚とは議論できない自称職人肌セラピストが。

理学療法士・作業療法士・言語聴覚士は実習生や後輩には異様に厳しいが、同僚セラピストや先輩セラピスト、医師、看護師とディスカッションできない人間が多い。

資格を取っていない相手や未熟なセラピストには自分の知識を上から目線で披露するが、相手が自分と同じスキル、あるいは他のジャンルの知識を持っていると急にディスカッションができなくなる。

こういう気質の人間は、自分が傷つくことを恐れる保守的な性格を有しているが、一方で、自分は職人であるとアピールすることで、自分の劣等感を隠そうとする。

GKDKNセラピストは、組織力の向上に何の役にも立たない。
ただただ、自分の理学療法、作業療法、言語聴覚療法に陶酔し、自分に惚れることが趣味な人間である。

そんな人間は一人職場に転職するか、合法的な方法で開業して一人で仕事をしてもらう方が良い。

そもそも組織は、理念を実現するために職員の総力を結集することに日々尽力をしている。

組織の中で、学生や後輩に偉そうにしても、何のイノベーションも起こらない。

セラピスト業界も養成校も専門職や他職種同士で議論できる人材の育成をしなければ、セラピストの価値の向上につながらない。

GKDKNセラピストの撲滅運動は、セラピスト業界の使命の一つであるとも言える。

成熟社会では、よりレベル高い理学療法士・作業療法士・言語聴覚士のリハビリテーションサービスが求められる

リハビリテーションとは、全人間的復権である。
その人がその人らしく生きていくことを支えていく概念がリハビリテーションであり、その実現を支援するサービスがリハビリテーションサービスである。

日本は世界に類を見ない先進国であり、物質的な繁栄が著明である。
40年~50年程前の日本は物質的にもまだ、恵まれておらず、国民は国の経済的繁栄こそが幸せであると考え、懸命に働き、今の日本を作った。
先人たちの尋常ではない努力で、日本は小さい島国ながらも世界第三位の経済大国となり、国民の生活レベルも極め高い国となった。
国民の衣食住がこれだけ充実している国は実は世界では少数派である。
このような先進国では経済的な発展や物質的な繁栄が当たり前のように感じ、人が幸せを感じる尺度は変化する。

このような社会を成熟社会と呼ぶ。

成熟社会では
人間関係を良好に保ちたい
心が通う仲間が欲しい
自分自身の存在を認めてもらいたい
自分のやりたいことをやってみたい
という人間にとって高次元な欲求が高まってくる。

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現在の日本は超高齢化社会となっており、高齢者の医療福祉政策が急ピッチで進んでいる。
医療・看護・介護・リハビリテーションと様々な分野で対策が打ち立てられている。
特に、リハビリテーションは全人間的復権の概念であることから、あらゆる分野で必要とされるものである。

リハビリテーションが一般的な社会インフラになる前の日本では、リハビリテーションとは機能障害やADLの回復を目指すものであった。
当然、機能障害やADLの回復は全人間的復権に必要なものであるため、それらは依然として重要である。

それに加え、成熟社会では、承認欲求や自己実現などの支援も求められる。

時代が変われば、求められる全人間的復権の内容も変わる。

今の時代は理学療法士、作業療法士、言語聴覚士は機能障害やADLの回復を促せる知識や技術に加え、より高次元の患者、利用者の欲求や想いを支える技能が求められる時代になっている。

こういった背景とともに生まれてきた概念である地域包括ケアや地域リハビリテーションは、より質の高い理学療法士、作業療法士、言語聴覚士の能力を求めている。

医療職・介護職は相場以上の給料が欲しければ自分で勝ち取るしかない

日本では、2040年代まで医療・介護におけるハードとソフト面の整備が国策として推進される。

これからの時代は団塊の世代及び団塊ジュニアが高齢者となり、多死の時代となるため、医療・介護の対策は国を挙げてのプロジェクトとなった。

そのプロジェクトを円滑に推進するために、医療・介護に関わる人材は大量に市場に供給される。しかしながら、社会保障費の圧縮も必要となるため、人材にかかる費用、すなわち人件費を湯水のごとく増加させることはできない。

増加する高齢者にサービスを提供する医療職・介護職を安定的に市場に供給するためには、医療職・介護職がそのサービス提供によって得られる給料を保証し、雇用を守る必要がある。

しかし、先述したように社会保障費圧縮の政策との兼ね合いから、医療職・介護職の給与の保証は非常に難しい問題である。

人件費を無尽蔵に増加させることができない国の財布事情があるため、医療職・介護職の給与は保証されたとしても「生活が可能である必要最低限のレベル」で守られる程度である。

すなわち、これからの時代において、なんの努力もなしに、国や職能団体に頼っていては、右肩上がりに給料や処遇が上がっていくことは不可能である。

むしろ、国や職能団体は生活が可能である必要最低限のレベルを守ってくれていることさえにも感謝しなければならない時代になっていく。
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相場以上の給料が欲しければ、医療職・介護職は「自分の努力で自分を変え、自分の力が他人や組織に役に立ち、そのことにより大きな経済効果が得られる」というプロセスとアウトカムを実行しなければならない。

理学療法士・作業療法士・言語聴覚士・看護師・介護福祉士等は国家より資格を付与されている。そのため、国は生活ができる程度の給与保証はしてくれるかもしれない。
しかし、国によるそれ以上の給与保証はありえない。

職場や居酒屋で「給料があがらない」、「自分が評価されない」、「上司が悪いんだ」
「会社が腐っている」とどれだけ愚痴を言っても、給料は一円もあがらない。

 

リハビリテーション分野は幅も広く、奥も深い。それゆえ、セラピストの知性が求められる。

筆者は、仕事柄、多くの病院・診療所・老人保健施設・介護保険事業所等を訪問し、そこで働く医療・介護職と話をすることが多い。

その中で、最近、特に感じることは、同じセラピストであっても、リハビリテーションやセラピストという仕事に対する捉え方が大幅に違うということである。

つまり、セラピストの仕事に対する考え方の標準偏差が拡大していると言える。

多くのセラピストは「セラピストの仕事の概念」について、勤め先の事業内容や日頃の運営方針の影響を強く受けている。

整形外科診療所に勤めるセラピストは、少ない単位で即時的効果を出し、痛みや可動域を改善することが仕事

訪問リハビリテーションに携わるセラピストは、利用者や家族のQOL向上に取り組むことが仕事

大学病院に勤めるセラピストは、最先端医療や知見を用いて、最大限の機能回復に取り組むことが仕事

回復期リハビリテーション病棟に勤めるセラピストは、ADL回復と在宅復帰に必要な条件を整えることが仕事

老人保健施設や有料老人ホームに勤めるセラピストは、個別リハビリではなく、施設職員全員によるリハビリテーションアプローチを考えるのが仕事

療養病棟やターミナルに携わるセラピストの仕事は、終末期リハビリテーションを提供することが仕事

もちろん、そこに勤める全セラピストが同じ考えをもっているわけではない。
しかし、勤め先の業務内容がそのセラピストの「仕事観」に影響を与えていることは間違いないだろう。

リハビリテーションの概念は言うまでもなく、「全人間的復権」である。
しかし、リハビリテーションサービスを生業にしているセラピストが、仕事観に関して様々な考えをもっているのが現状である。

時代は機能分化と地域包括ケアの時代である。
機能は分化するが、地域は包括化せよという二律背反するような哲学が、医療と介護に導入されている。

そのような時代に、セラピストはどのような考えを持って仕事に邁進するべきなのか?

リハビリテーションとは実に幅も広く、かつ、奥も深い。
一言で、「全人間的復権」と言っても、その奥行や幅の広さは、各個人で異なる。

しかし、現在、自分が働く分野の利用者の全人間的復権を支援できるソリューションを提供することは最低限セラピストに求められる仕事である。

また、将来、自分が携わりたい分野における全人間的復権のソリューションを事前に考え、そのスキルを高めておくことは、個人のキャリアデザインにとって重要である。

リハビリテーションとは実に幅が広く、奥も深い。

それ故、セラピスト個人の職業倫理観やキャリアデザインに関する知性が要求される。